FASHION
解放され仕事を手にした女性たちと20世紀前半のファッション《連載:ファッションオタクのサーバエンジニアが見る女性とファッション・スタイルの文化史(2)》
ROBE読者の皆様こんにちは、ryokoです。連載第一回「女性の仕事服はなぜできた?現代にも続く20世紀以前のファッション」に続き、第二回のテーマは女性を取り巻く環境が急激に変わっていった時代のひとつである20世紀前半ごろのファッションです。
今や女性が仕事を持つことはあたりまえですが、そうではなかった時代に、はじめて仕事を手にした女性の気持ちがどのように変わり、ファッションに影響を与えていたのかという所について考えてみたいと思います。
時代の転換期と「男性の代理」から始まった女性の仕事
女性を取り巻く環境が急激に変わった要因のひとつに、第1次世界大戦(1914~1918)といった時代の大きな流れがあります。兵士に限らず国民全体を巻き込んだ総力戦により街には男性が少なくなり、女性が働かざるを得ない状況を作り出しました。その結果、女性の大学進学や参政権が認められるなど社会の体制も変わっていきます。
つまり「後継者の男子を産む」「子孫を残す」という20世紀以前に女性が担っていた役割の他に、職業を持つことで社会に参加する土壌ができたということ。これを機に女性も活動的になり、働く女性が急増しました。
活動的になっていく中で、コルセットでウエストを締め付け、重い帽子をかぶり、長い裾を引く従来の服装では不便になっていき、動きやすい服装が求められるようになります。まさに激動の時代がもたらしたファッションの転換期なのです。
苦しいウエストと束縛から離れたファッション
仕事を持つ価値に気付いた時代と女性を解放したココ・シャネル
この時代の女性の意識とファッションに大いに影響を与えた人物といえば、ココ・シャネル。
ココ・シャネルは1883年、貧しい行商人の父と病弱な母の間に生まれ、孤児院で育ちます。帽子デザイナーとしてキャリアをスタートさせた彼女は、イギリス貴族で実業家のアーサー・カペルの出資により、大戦前夜の1913年に洋服のブティックを開店。戦後の女性が社会進出し始めた時代において、女性を束縛していたコルセットを外し、喪服にしか使われなかった黒を使用してシンプルで動きやすい洋服を提案し支持を得ます。
小さな帽子に短い髪、当時としては短めだったくるぶし丈のスカートを履いた奔放な「ギャルソンヌ」スタイルはシャネルが先駆けとなりました。
20世紀における女性起業家のパイオニア
ココ・シャネルは支援された資金を全額返還し、経済的自立にもこだわりました。ここが彼女の一番すごいところの一つ。仕立て屋を営む以前はドゥミ・モンドとよばれる高級娼婦だった彼女が完全な自立をすることで社会に認められようとしたことです。現代の視点から見れば、完全な自立とはいえないと言われることもありますが、今の私たち女性が世間的にいわれるまともな仕事に就けるのは、この時代の彼女のように、必死にもがいた人がいたからではないでしょうか。
従来の上流階級の「仕事しない、動かない」美学を打ち壊したココ・シャネルは「皆殺しの天使」と呼ばれました。まさにココ・シャネルは社会の意識や考え方を一変させ、女性の積極的な社会進出を促す起爆剤となったのです。
以前受講した専門学校の授業で講師の方がおっしゃっていたのですが、「身体における束縛は人間が思っている以上に人間の思考にとても大きい影響を与える」のだそう。その時代の女性たちが苦しい服装から解かれ、自分の体だけでなく心も自由に動けることに気づいたのでしょう。束縛から解放された彼女たちが自由に疑問を持ち、考え、社会に参加しようとする意識をもったのは自然なことだと思います。
女性が従事した職種は縫子やメイドなどの家事手伝い、教師など、家庭における女性の役割の延長という性格を持っていました。以前より、職業とは見られなくても、経済的必要から労働せざるを得なかった女性が多数存在してはいましたが、仕事の達成感や社会に参加しているという充実感が本格的に芽生えたのがこの頃です。
女性が仕事を持つことによる充実感について
私のおばあちゃんの場合
はじめて仕事を手にした女性の気持ちがどのように変わっていったかについて、この時代を生きていた私の祖母を例に挙げてみたいと思います。
祖母は大正14年(1925年)に現在の岐阜県にある備中岡田藩の士族の娘に生まれ、父親が決めた男性と結婚しました。当時のファッションは祖母いわく「モガ」が流行っていたそう。時代系列的に田舎には流行が遅れて入ってきたのでしょう。祖母がオシャレをして出かけるときは、丸みのあるストンとしたステンカラーのコートに、小さな帽子を短めのヘアスタイルに合わせ、赤い口紅をキッと引いていたのを小さいながら覚えています。
祖母は女学校時代に和裁を習い、結婚後に専業主婦の傍ら着物の仕立ての内職を始めました。反物から一着仕立てるだけでなく、帯もすべて仕立てていたそう。内職というもののれっきとした仕事だと思います。私が成人した後も続けていたので、かれこれ半世紀以上の経験年数をもっていたことになります。経験年数だけだったらパリのオートクチュール職人に負けてないかもしれません。(笑)
祖母は内職を続けていたこと、自分の収入を得ていたことについて、家庭とは関連なく自由にでき、自分だけの欲しいものが買えたし、本当によかったと話していました。特に仕立ての仕事は経験年数を積むにつれて重宝されるそうで、「80歳近くになっても仕事があるということはありがたい」と。
なによりその話をしている中で、祖母が満たされた様子だったことがとても印象に残っています。表情には自信があり、充実感があり、祖父の前にいるときとは別の顔をしていました。完全に独立した収入で、自分の意思で選択したものを消費するというのは、まさに社会に参加する行為だと思いますし、それによって得られた姿ってこういうことなのでしょう。
古典的な家長制度や結婚制度の中にいた祖母にも、ココ・シャネルと同様の「経済的自立」観が存在していたのはとても意外でしたし、うれしい気持ちになりました。女性として生きることについて大事なことを教わったと思っています。
第三回は第二次世界大戦を経て華やかなりしオートクチュール全盛の最後の時代、20世紀半ばごろのファッションについて考えてみたいと思います。
第一回:女性の仕事服はなぜできた?現代にも続く20世紀以前のファッション 《連載:ファッションオタクのサーバエンジニアが見る女性とファッション・スタイルの文化史(1)》